長野の神輿と善光寺木遣り
宝暦4年(1707年)、撞木づくりの荘厳な善光寺本堂が再建されました。松代藩第3代真田幸道侯に善光寺造営工事の御下命が下り、藩より総勢440名が出張し、大工事を行って落慶したと伝わります。この時、江戸から来た棟梁たちが寝泊まりしていましたのが刈萱山(かるかやさん)西光寺(さいこうじ)で、作業の往復や事あるごとに唄われていたであろう木遣りを、地元の職人たちが聞き覚えて唄い継いで、今日の「善光寺木遣り」があります。
長野市内に点在する町神輿は、この時の職人たちが分宿していた各町会に御礼として残していったのではないかと言われています。当初は、様々な場面で担がれ、祭りに華を添えていましたが、その文化は残念ながらテレビの普及と共に衰退し、長きに渡り倉庫で眠ることとなりました。1998年長野オリンピックと、その招致活動の盛り上がりの中で「信州神輿保存会」が立ち上がり、各町会で眠っていた神輿文化を掘り起こし、現在の善光寺表参道夏祭りへと繋がっています。